钓鱼岛(尖阁岛)的真相1 (证据1~10)

目录 钓鱼岛问题的历史来龙去脉
(序章 尖閣問題の歴史的経緯)

钓鱼诸岛长期是无主地(不是某个人的,也不是哪个国家的领土),作为松鱼的鱼场而有名,很久以来琉球的渔民一直在那里捕鱼。包括鱼钓岛久场岛的钓鱼岛在最繁荣期曾经有248人居住。

(尖閣諸島は長らく無主の地(誰のものでもなく、どこの国の領土でもない地)であり、付近はカツオの好漁場として知られ、古くから琉球の漁民が漁をしていました。魚釣島や久場島には日本人が居住し、最盛期には248名もの島民が住んでいました。)

中国以明清古代地图上有钓鱼岛的记载为依据,主张钓鱼岛自古以来是中国的领土,其实,在海图上记载的钓鱼诸岛不过是作为航海时位置所在的标志而已,不是中国的领土。

(中国は「明や清の古地図に釣魚島が記載されている」ことをもって、「尖閣は古来から中国の領土」と主張していますが、単なる海図に尖閣諸島が記載されているのは、航海の目印となる位置に点在していたためであり、中国の領土であったからではありません。)

1971年中国突然主张领土主权
(1971年に突然、領有権を主張)

1895年(明治28年)明治政府调查了钓鱼诸岛属于无主地,没有任何国家统治管理,并且在确认此调查结果无误的情况下,把钓鱼岛纳入了日本领土。对此,没有任何国家提出异议。

(1895年(明治28)年、明治政府は、尖閣諸島が無主の地であり、どの国の支配権も及んでいないことを調査し、確認した上で、日本領土に組み入れました。これに対して、どの国からも異議申し立ては行われませんでした。)

可是,1969年国联调查团调查钓鱼诸岛的海底,发现可能有丰富的油田。于是,中国在2年后的1971年突然开始主张对钓鱼岛的主权,说:“钓鱼岛是中国自古以来的领土”。

(ところが、1969年、国連の調査団が尖閣諸島近海の海底に豊富な油田がある可能性を示唆。すると中国は2年後の1971年、「尖閣諸島は、古来より中国の領土である」と、突然、尖閣諸島の領有権を公式に主張し始めます。)

但是,即使是看中国的公文或者档案,在海底资源发现以前,中国也明确地承认“钓鱼岛是日本的领土”。接下来,让我们去看看那些所谓的“铁证”吧。

(しかし、中国側の公文書や文献を見ても、海底資源が発見される前の中国は、「尖閣諸島は日本の領土」であることを明確に認めてきたのです。それでは、さっそくそれらの数々の「動かぬ証拠」を見てみましょう。)

第1章「釣鱼岛自古以来是中国領土」的主張是荒唐的,请看下面证据:
(第1章「釣魚島は古来から中国領」の主張を覆す動かぬ証拠)

证据1  明朝认为「钓鱼岛是国外」(証拠1 「尖閣は国外」と認識していた明国)

 『大明一統志』(1461年)

明朝地理书『大明一統志』(1461年)在福建省福州府的栏目里明确记载了「东海岸至一百九十里」。 一百九十里(约100公里),是从福州本府到海岸的距离,清清楚楚地记载了「明朝的領土就到海岸」。

也就是说,明朝福建省的国境的海岸明确不包括钓鱼岛,钓鱼岛是「国外」。
明朝的领土到一百九十里的海岸的话,与海岸遥遥相对的钓鱼岛当然就不属于明朝领土的范围了。

(明国の地理書である『大明一統志』(1461年)の「福建省福州府の項には、「東のかた海岸に至る一百九十里」と記されています。百九十里(約100キロメートル)は、福州の本府所在地から海岸までの距離であり、「明国の領土は海岸まで」ということを示した記述です。

つまり、当時の明国の福建省の国境は海岸であり、明国は、尖閣諸島を明らかに「国外」と認識していたことになります。明国の領土が海岸までならば、海の向こうにある魚釣島は、当然、明国の領土であるはずがありません。

写真 『大明一統志』天順本(統一印刷公司)より、福建省福州府の項目(八重山日報2012.10.6より))

02-01_01 大明一統志

证据2 「从久米島往东是琉球」即使有这种说法,也不能说是国境
(証拠2 「久米島から東が琉球」であっても国境とはいえない)

『使琉球录』(『使琉球録』)(1534年)

使琉球録表紙『使琉球录』1534年记载了明朝册封使陳侃从中国福州出海到琉球。
1996年10月18日「人民日報」对『使琉球录』是这样解释的:

“十日南风甚迅,舟行如飞,顺流而下亦不甚动。过平嘉山,过钓鱼屿,过黄毛屿,过赤屿,目不暇接,一昼夜兼三日之路,夷舟帆小不能相及矣。在后,十一日夕见古米山乃属琉球者,夷人歌舞于舟,喜达于家。”

(『使琉球録』は1534年、中国の福州から琉球に航海をした、明の冊封使、陳侃(チンカン)が記した書物です。1996年10月18日付「人民日報」は、この『使琉球録』について、次のように解釈しています。)
使琉球録

「十日,南風拂起,利于帆舟,顺流而下,十分平稳。经过平嘉山、钓鱼岛、黄毛屿、赤屿等,无暇浏览。昼夜航行相当于三天的路程,夷人的小船帆很小,不如我们的大。之后,十一日黄昏看到了古米山。它属于琉球,夷人在船上で载歌载舞,很高兴到达了故乡。」

(「十日、南風はなはだつよく、舟は飛ぶように進み、流れにそって下ってもあまり揺れなかった。平嘉山、釣魚嶼、黄毛嶼、赤嶼を次々と通りすぎ、見る暇もないくらいだった。一昼夜で三日間の航路を進み、夷の舟は帆が小さく、われわれの舟に及ばなかった。その後、十一日の夕方に古米山が見えた。これは琉球に属するもので、夷の人は舟上で歌い踊り、故郷への到着を喜んでいる。)

古米山也称姑米山(岛),就是现在冲绳县的久米岛。夷人是指当时船上的琉球人。文中琉球人看见古米山「歌舞于舟」生动描绘了归家之喜,当时的琉球人认为只有过了钓鱼岛,到达久米岛后才算回到了自己的国家,而钓鱼岛、黄尾屿、赤尾屿等则根本不属于琉球。
(以上、1996.10.18 人民日報转载)

(古米山は姑米山(島)とも呼ばれ、現在の沖縄県久米島を指す。夷人は、当時船上にいた琉球人のことを指す。文中では琉球人が古米山を見て「舟上で歌い踊る」という、帰還の喜びがありありと描写されており、当時の琉球人が釣魚島を過ぎ、久米島に至って初めて「自国に帰ってきた」と認識していることがうかがえる。釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼などは元来琉球国には属さないことになる。
(以上、1996.10.18 人民日報より転載))

当时的琉球人即使过了钓鱼岛也没有任何反应,只有看到久米岛才欣喜若狂发出了「琉球,我回来了」。
渔民看到久米岛所表现出的喜悦是自然而然的感情表达,不仅因为看见钓鱼岛,而是因为知道马上就会到琉球(冲绳本岛)了。

看见岛就知道「马上就到家了」说明当时的琉球人频繁来往于钓鱼诸岛海域,于此可见明朝钓鱼岛的存在是被广泛知道的。并且,琉球人比明朝人更早知道钓鱼岛的存在,更能准确地把握它的位置。

(当時の琉球人が、釣魚島を過ぎても何ら反応しなかったのに、久米島を見てから「琉球へ帰って来た」と喜んで踊ったというのです。この漁民が久米島を見て喜んだのは、単に久米島を見て、まもなく琉球(沖縄本島)が近いことがわかったからだと考えるのが自然です。

島を見て「もうすぐ家に着く」と判断できるということは、当時から琉球人は頻繁に尖閣海域を往来しており、明代にはとっくに魚釣島の存在をよく知っていたことを証明するものです。明の人々よりも、琉球人のほうが古くから魚釣島の存在を知り、的確に位置を把握していたことがわかります。)

即便是这样,就说久米岛以东是琉球,久米岛以西是中国领土,这种说法实在是站不住脚。

从开始说钓鱼岛自古就是「无主地」,到本来就不是琉球的,也不是日本的,也不是中国或者台湾的,它只是一个不属于任何国家的无人岛,到说久米岛是琉球的,由此就主张那里是国境,这种说法跨度太飞越了。

(それにしても、久米島から東が琉球だからといって、久米島より西は中国領だというのは、あまりにも乱暴ではないでしょうか。魚釣島は古くから「無主の地」であり、もともとは琉球のものでも、日本のものでも、ましてや中国や台湾のものでもありませんでした。どこの国の領土でもなかった無人島です。久米島からが琉球だとして、だからといってそこが国境であるという主張は、飛躍しすぎています。)

而且『使琉球录』还详细记载了琉球人登入陳侃的船的过程:

这个月,琉球国的进贡船到了,我们听到都很高兴。我们一直担心福建人不熟悉海线路航,现在琉球人来了,向他们询问了具体的线路。第二天,又有一艘琉球船来了,王子趋向前来迎接的长史蔡廷美表示:很高兴,不用询问,也给我们带路。长史转达王子的问候,王子担心福建人不习惯操使,留下一名航海翻译和三十名熟练人员,代替操船驾舟。

(また、『使琉球録』には、琉球人が陳侃の船に乗り込んだ経緯も書かれています。

(訳)この月、琉球国の進貢船が到着し、我々はこれを聞いて喜んだ。福建人は航路に詳しくないので、それを心配していたが、琉球人が来てくれたことを喜び、航路の詳細を聞くことになった。翌日、再び琉球船がやって来た。王子が長史の蔡廷美を迎えに寄こした。嬉しかった。朝貢者に聞かなくても、案内をしてくれるからだ。長史は王子の挨拶を伝え、王子は福建人が船の操縦に不慣れなことを心配して、通訳航海士一名に航海に慣れた者三十人を随伴させ、かわりに操縦させることにした。)

福建人对钓鱼诸岛近海的航线一点也不熟悉。自古以来,琉球人来往于钓鱼岛,并且把它作为渔场,我们从中国方面提供作为证据的文献里明白了。

(福建人は、尖閣諸島近海の航路には、ほとんど詳しくなかったようですね。古来から尖閣の海を往来し、漁場として生活してきたのは琉球人であることが、はからずも中国側が証拠として掲げる文献から、よくわかります。)

<证据3>关于中国 把「日本近海の岛」说成是「台湾的附属岛屿」
(証拠3 「日本近海の島」を「台湾の附属島嶼」と訳した中国)

『日本一鑑』1555年 中国主張「钓鱼岛是小东(台湾)の小岛」

『日本一鑑』1555年 中国の主張「魚釣嶼は小東(台湾)の小島」

????『日本一鑑』是1555年明末清初郑成功在日本九州生活3年后,回中国写的书籍。

在这本书中,收录了被誉为「万里长歌」的从中国广州到日本九州的航海线路。从福州的梅花所的东山开始出航,书写了以「小东岛之基隆屿」(台湾の基隆港外の小岛)为目标航海,钓鱼岛与此遥遥相对。

(『日本一鑑(にほんいっかん)』は、1555年、倭寇対策のために日本に派遣された明の鄭舜功(ていしゅんこう)が、3年に渡る九州滞在の後に帰国して著した書物です。
同書には、中国の広東から日本の九州にいたる航路を説明した「万里長歌」が収められています。福州の梅花所の東山から出航して、「小東島之鶏籠嶼」(台湾の基隆港外の小島)を目標に航海し、それより釣魚嶼に向かうという内容です。)

书中还有「比梅花要渡过澎湖小东」、「钓鱼岛是小东的小岛」的内容。

日本学者井上清氏解释「小东就是台湾」,出著『解明钓鱼岛』,翻译「钓鱼岛是台湾的附属小岛」。对此,中国政府也引用井上氏的説法,主张钓鱼岛的所有权。

 (その中に、「梅花より澎湖の小東に渡る」、「釣魚嶼は小東の小嶼也」という一文があります。「尖閣諸島は中国の領土」と主張する日本人学者、井上清氏は、「小東とは、台湾のことである」と解釈し、著書『釣魚嶼の史的解明』の中で、この「釣魚嶼は台湾の附属の小島である」と翻訳。中国政府も、この井上氏の説を、魚釣島の領有を主張する際の根拠として引用しています。)

 

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不是「小东」,是「小东洋(日本近海)」?

「小東」ではなく「小東洋(日本近海)」?

让我们看一下史景迁(Jonathan D.Spence 乔纳森・斯宾塞),制作的《坤輿万国全图》(明代・1602年),他把日本东边の海称为「小东洋」。小东洋是从明代到清代一直使用的海域名称。

(マテオ・リッチが作成した「坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず)」(明代・1602年)という地図を見ると、日本の東方の海に「小東洋」と記されています。小東洋とは、明代から清代にかけて使われていた、この海域の呼び名です。)

「坤輿萬國全図」(京都大学附属図書館所蔵)

井上清氏说「小东」就是「台湾」,真的是这样吗?
根据专家研究,当时、把台湾称为「小琉球」,可是丝毫没有称为「小东」的痕跡。

「小东」不是指台湾,而是指史景迁命名的日本の东边的海域,这种说法更自然、更有说服力。

『日本一鑑』的作者郑成功は在日本只待了三年,日语或许不能堪称上手,是否存在语言混淆的可能性。他在船中错把琉球「小东洋の小岛」(=日本近海の小岛)听成「小东」了呢?

把「小东」和「小琉球(台湾)」解释为同一词汇,实在不敢苟同。
那么,井上清氏的「钓鱼岛不是无主地,从明朝开始是台湾的附属小岛」的説法也就不足凭信。

(井上清氏は「小東」という言葉を「台湾」のことであると断定していますが、はたしてそうでしょうか。

専門家の研究によると、当時、台湾のことは「小琉球」とは呼ばれていましたが、「小東」と呼んだ痕跡は見当たりません。「小東」とは台湾のことではなく、マテオ・リッチが命名した日本の東方海中の「小東洋」という海域であるという解釈のほうが、自然であり、説得力があります。(※参考 WEDGE2013年1月号「尖閣はなぜ日本領か 歴史的・法的根拠を示そう)

『日本一鑑』の著者である鄭舜功は中国人であり、日本にはたった3年滞在したに過ぎません。日本語も、それほど堪能とは言えなかったでしょう。ひとつの可能性としては、鄭舜功は船の中で琉球「小東洋の小嶼」(=日本近海の小島)という言葉を「小東」と聞き間違えたことも考えられます。「小東」を「小琉球(台湾)」と同義語だとする解釈も、また随分と乱暴な話です。
 したがって、井上清氏の「釣魚島は無主の地ではなく、明代から台湾の付属の小島であった」という学説は信憑性に欠けるものです。)

<证据4> 『指南广义』1708年

<証拠4> 『指南広義』1708年

在海图(航海图)上即使有记载也不能说是領土。

(海図(航海図)に記載されても領土とは言えない)

『指南广义』是琉球学者程順則1708年著作的航海图,为了那覇~福州来往贡船而绘制。右页左下、福建琉球之间来往部分,有「釣魚台」的文字。

(『指南広義』は、琉球の学者であった程順則(ていじゅんそく)が1708年に著した、那覇~福州間を往来する貢船のための航海図です。右ページ左下、福建と琉球の往来の部分に、「釣魚台」という文字があります。)

可是,这是航海图,航海时作为必要的目標而记载岛屿是当然的事情。

(しかし、これは海図なのですから、航海に必要な目標となる島を記載するのは当然です。)

指南広義 指南広義本文

指南広義本文拡大

<证据5>『中山传信录』1719年

証拠5 『中山伝信録』1719年


中山伝信録大中山伝信禄

『中山传信录』是徐葆光绘制的从中国到琉球的航海指示图,他是康熙皇帝册封的派往琉球国的副使。在指引船的方向的海图里,作为坐标记载着一些岛屿,钓鱼岛被记载在图的左边。

中国保钓人士经常以此作为证据而引用。可是,其实就像上一页所提到的「指南広義」参考书一样,只不过是作为航海图的坐标罢了,根本不是表示领土的地图。

(『中山伝信録』は、中国の冊封副使・徐葆光が著した中国から琉球までの船の針路を示した航路図です。船の針路を示す海図に、目印となる島が記載されており、左端に、「釣魚台」と記載されています。
この『中山伝信録』は、中国の保釣活動家が「魚釣島が中国領である証拠」としてよく引用しています。しかし、実はこれは前ページでとりあげた「指南広義」を参考に書かれたと言われています。「指南広義」も「中山伝信録」も、ともに航海のための航路図に過ぎません。領土をあらわす地図ではないのです。)

<证据6>『顺风相送』

証拠6 『順風相送』

順風相送『順風相送』是1403年明朝时期的书,书中出现了钓鱼岛,是现存的最古老文献,谁最早发现就是谁的领土,如果以此为原则成立的话,那么,在这本书里除了钓鱼岛以外,还出现了许许多多的岛屿,难道都能说是中国领土吗? 不要忘了,最早发现美洲大陆的是哥伦布,他是意大利人,如果谁最早发现就属于谁的话,那么美洲就应该是意大利的了!

(中国は、1403年(明代)に書かれた『順風相送』(じゅんぷうそうそう)が、釣魚島について記した現存最古の文献であり、「原始発見の原則」にしたがって、釣魚島は中国の領土だと主張しています。もしその議論が成り立つのなら、では、この『順風相送』には魚釣島以外にもたくさんの島が出てくるのですが、それらはすべて中国領だと主張するつもりなのでしょうか?)

中国杨洁篪外长说:“中国从明朝开始对钓鱼岛统治了600年“。之所以这样说的根据,就来自『顺风相送』。长崎纯心大学石井望准教授(汉文学)最近考证了『顺风相送』不是600年前,而是大约440年前写的书籍。

那么杨洁篪外长怎样应对呢?是不是要收回原来的发言呢?

(中国の楊潔篪(よう・けつち)外相(当時)は「中国は明の時代より600年間、釣魚列島(尖閣諸島)を支配している」と発言しました。この言葉の根拠になっているのが、この『順風相送』です。このほど石井望・長崎純心大准教授(漢文学)が学術的に反証し、『順風相送』は600年前でなく、約440年前に書かれたものであることがわかりました。

さて、楊潔篪元外相はどうするでしょうか。過去の発言を撤回するでしょうか?)

2012年11月9日的八重山日报,这样报道的:
「在「钓鱼岛」这本书中,关于如何去钓鱼岛有这样的记载,船从中国的福建省出港后,不经过台湾北端到达钓鱼岛。这是因为对航线非常熟悉的琉球人,他们喜欢走靠北的直线,与不南下经过台湾是一致的。这表明航海人不是中国人,而是琉球人特有の航路。

除此书之外,记载同样航路的书籍只有18世纪琉球人的著作「指南广义」。中国的一般的航线书,去钓鱼岛方向都要经过台湾。

石井准教授说「中国强调的最古老的史料,不仅年代出现错误,而且不是中国人的航线,而是琉球人文化的体现的可能性更高。对此,我们很关注中国政府怎么回答?」。」

順風相送本文◆「中国统治600年」的主张是完全错误的。 石井氏从学术上倒是证明了 〝钓鱼岛是属于琉球文化圏〟的。 (八重山日報 2012年11月9日)

『顺风相送』也同样不是領土領海图,只不过是航路图而已。

明朝『顺风相送』中有钓鱼岛的名字,冊封使的记录有钓鱼岛,由此就说钓鱼岛是中国的,这种说法不能成为证据。

(2012年11月9日付の八重山日報は、次のように報道しました。

「「釣魚嶼」の項目で記述されている尖閣諸島への航路では、船が中国の福建省を出港した後、台湾北端を経由せずに尖閣方面に到達する。これは航行に熟練した琉球人が、北寄りの直線的航路を好み、台湾まで南下しなかったことと合致。中国人ではなく、琉球人特有の航路を表している。

同書のほか、同じ航路を載せる航路書は、18世紀に琉球人が著わした「指南広義」だけだ。中国の一般的な航路書では、尖閣方面向けは台湾経由になっている。
石井准教授は「中国側の強調する最古の史料の年代が崩れるだけでなく、同じ史料で逆に尖閣航路は琉球文化圏であったことを示す可能性が高まった。中国政府がどう反応するのか注目される」としている。」
◆領有主張「完全な誤り」 「中国が600年前から支配」 石井氏、学術的に反証 〝尖閣は琉球文化圏〟と指摘 (八重山日報 2012年11月9日)
 『順風相送』もまた、領土領海図ではなく、単なる航路図に過ぎません。
 明代の『順風相送』の中に釣魚嶼の名があり、冊封使の記録に釣魚台の名が登場するからといって、尖閣諸島が中国領であった証拠にはならないのです。)

 

<证据7>在海图上描绘的岛屿是作为标志或者航海时的方向用的

証拠7 海図に島を描くのは、目印や船の針路になるから

《筹海图编》系1562年(明嘉靖三十五年)地理学家郑若曾等人收集海防有关资料编辑而成的一部沿海军事图籍。
在这部地形图中,有「福建沿海山沙图」,其中记载了许多岛屿,在尖阁诸岛的地方有钓鱼岛的记载。

(『籌海図編』(ちゅうかいずへん)は、1562年に明の地理学者、鄭若曽が著した日本研究書です。この『籌海図編』に収められている「福建沿海山沙図(ふっけんえんかいさんさず)」という大陸沿岸の島嶼図の中には、尖閣諸島の古名「釣魚嶼」などが記載されています。)

《筹海图编》扩大图

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中共以此为根据,认为明朝有此记载,所以是明朝领土,属于明朝海防管辖范围。

可是,像《筹海图编》这样的海图,把不属于自己国家领土,描绘周边岛屿及地域是很正常的。

在「福建沿海山沙图」里记载的钓鱼岛,并不是因为它是自己的领土,而是为了指明防卫或者 航海时的方向。

(中国政府はこのことをもって、「尖閣諸島は明国の地図にも記載されているのだから、明の領土であり、海防管轄範囲であった」と主張しています。しかし、『籌海図編』のような沿海図は、自国の領土だけでなく、その付近にある島々や地域を含めて描くのが普通です。「福建沿海山沙図」に尖閣諸島が描かれているのは、そこが領土だからではなく、それらの島嶼が、倭寇が襲来する際の進路にあたり、中国本土防衛上、注意すべき区域だったためです。)

<证据8>仅仅是经过而已,不能说是属于自己的领土

証拠8 通過しただけで自国領とは言えない

02-06_01中共主张所谓的钓鱼岛自古以来是中国的领土,并且以古文献中有钓鱼岛的记载为根据。可是,仔细详读,会发现仅仅是「航海中看见钓鱼岛了」或者是「经过了钓鱼岛附近」这样的记载。

比如在『琉球国志略』(1757年)里有这样的记载「五月初一日过钓鱼岛」。也就是说,「5月1日经过了钓鱼岛」。

(中国が「尖閣諸島は古来より中国の領土」と主張し、その根拠として掲げる古文書には、たしかに尖閣諸島について記述した文献があります。しかし、よくよくその内容を読むと、「航海の途中で釣魚島を見た」「釣魚島の近くを通った」というものばかりです。
例えば、次の『琉球国志略』(1757年)には「五月初一日過釣魚台」という記述が見られます。つまり、「5月1日に釣魚島を通過した」という意味です。)

仅仅是在其附近经过,看见了岛屿而已,就能说是自己的岛屿吗?这也未免太荒唐了吧?

古往今来,多少国家的人都经过钓鱼岛,都看见了钓鱼岛,日本人 琉球人 荷兰人 西班牙人 美国人
葡萄牙人,不仅只有中国人经过。他们都主张看见了 经过了 就是自己的领土了吗?显然没有。

所有权是指在岛上驻军,实际上在岛上有人居住,建立哨所 灯塔和仓库等设施。不是仅仅通过就可以说有所有权的。

(近くを通り、島を目撃しただけで、その島は自分のものになるのでしょうか? そんなことはありえません。古来より、尖閣諸島近海を通過した人々は、日本人、琉球人、オランダ人、スペイン人、アメリカ人、ポルトガル人と、たくさんいました。中国人だけではありません。それらの人々が、みな「この島は自国の領土だ」と主張しているでしょうか?

「先占」の所有権とは、その島に軍隊が駐留すること、人が実際に居住すること、出張所や灯台、倉庫などを建設することなどを指します。近くを通過していただけでは、領有権を主張することはできません。)

 

<证据9>对『坤舆全图』的反驳

証拠9 『坤輿全図』に対する反論

『坤舆全图』(1767年)

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『坤舆全图』是康熙年间发行的大型世界地图。作者Ferdinand Verbiest是比利时人,耶稣教会会士。1659年来华传教,有影响力人士之一。任职钦天监(天文台长),通晓天文地理。

在『坤舆全图』里好像钓鱼岛是中国的,这种说法不成立。
(→人民日报 2012年10月12日 http://j.people.com.cn/94475/7975346.html )
让我们把冲绳的地图放大来看吧,根本就没有钓鱼岛属于中国的痕迹。

台湾的宜蘭县原本是海岛的据点,清朝把台湾纳入行政区是1810年,纳入清朝版图是1812年。

『坤舆全图』的出版比其早了43年。
人民日报说『坤舆全图』里绘制了钓鱼岛属于中国领土,问题是那时连台湾的宜蘭县都不属于清朝呢,何谈台湾的附属岛属于清朝呢?太搞笑了!

(『坤輿全図』(こんよぜんず)は、北京で刊行された大型の両半球世界地図です。作者F.フェルビーストはイエズス会士であり、1659年に中国に渡りキリスト教伝道に努める一方、欽天監(天文台長)を勤めるなど、天文地理の分野でも活躍しました。

「この『坤輿全図』では、魚釣島は中国領土になっている」と中国は主張しています。(→人民日報 2012年10月12日 http://j.people.com.cn/94475/7975346.html )
しかし、沖縄付近を拡大してみても、特に中国領と書かれた形跡は見当たりません

台湾の宜蘭県はもともと海賊の拠点でした。台湾が清朝に行政区として組み入れられたのは1810年、清朝の版図になったのは1812年です。『坤輿全図』が描かれたのは、それよりも43年も前です。『坤輿全図』で尖閣諸島が中国の領土として描かれていると、人民日報は主張しますが、台湾の宜蘭県でさえ清朝版図ではなかったのに、なぜその附属諸島(と中国は主張する)である魚釣島が清朝の領土だといえるのでしょう?)

<证据10>关于『三国通览图説』的颜色问题,矛盾重重

証拠10 『三国通覧図説』の塗り絵は、矛盾だらけ

『三国通览图説』(1785年)

『三国通览图説』是日本江户时代地理学家林子平绘制的地图。由于在此地图上,钓鱼岛的颜色和中国大陆的颜色都被涂成红色,而引发钓鱼岛的属性。

(『三国通覧図説』は林子平という江戸時代の日本の地理学者が描いた地図です。尖閣諸島と中国が同じ赤い色に塗り分けられていることから、中国は「これこそ、釣魚島が中国の領土である証拠」として、この地図を何かと引き合いに出してきます。)

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仔细看的话,当时已经纳入清朝版图的台湾,应该也是红颜色才对,可是却是黄颜色的。
而且,属于台湾的花瓶屿和彭佳屿,应该和台湾一样,被涂成黄颜色才是,结果为什么是红颜色呢?矛盾重重,无法解释吧?

我来告诉你吧,这张地图的颜色与领土所属没有关系。只是由于颜色一致,就断定领土的属性,缺乏说服力。

(しかし、よく見ると、当時、清朝の版図に組み入れられていた台湾は、当然清朝と同じ「赤色」に塗られなければならないはずですが、台湾は黄色に塗られています。そして、台湾の領土であった花瓶嶼と彭佳嶼は、台湾と同じ黄色ではなく、なぜか赤色に塗られているなど、矛盾点が多くみられます。この地図の色分けは国の領土とは関係ないようです。たまたま尖閣諸島が赤い色に塗られているからといって、清朝の領土であった証拠とは言えません。)